すべてが無駄であることについて

【スポンサーリンク】

植木

※気分を害する恐れがあります

 

面白い話ではないんですが、この時期になると思い出すことがある。

僕が大学一年生の頃の話だから、もう7年も前の話になる。

その年の、その夏にあった大きな出来事だ

 


僕は、とあるサークルの会長をやっていた。「現代史研究会」というサークルだ。部員も数えるくらいしかいない。そんなに目立たない地味なサークルだが、やっている内容は至極真面目なことだ。例えば沖縄のアメリカ軍普天間基地の移設問題、在日韓国・朝鮮人が受けている差別の問題、死刑制度の存置・廃止の問題等々、扱う問題は様々だ。僕は当時大学一年だったが、サークルの代表を務めることになった。それに至る経緯は若干複雑だが、僕にとっては一生忘れることが出来ない事柄でもあった。しかし時間が経てば、気持ちが薄れていく恐れがある。そうならないうちに、再度、文章化しておかなければならない。


僕の一つ前に会長を務めていた先輩がいた。植木 翔大という人だが、友人のように親しくしてくれた人だ。僕は大学に入ってすぐ、現代史研究会に入った。その時にサークルの活動内容から大学の授業についてなど、色々な話をした。その後サークルの集まりの帰り道でもよく話した。
「何かこまったことがあったらいつでも連絡していいよ」
初対面の僕にこういってくれた。そう、ものすごく人がいい。それに加え、まじめなサークルのイメージが払拭されるほど、ふざけた人でもある。なんといえばいいのか、一昔前のオヤジギャグを平然と言い、滑っても全く気にすることがない。でも彼には、その場を暖めてくれるようなムードメーカー的な要素があった。

 

 

 

 

植木先輩は、その年の夏に亡くなった。

 

僕がその連絡を受けたのは、バイトが終ってドトールでコーヒーを飲んで本を読んでいた時だった。突然、親しい人が亡くなった、という連絡が入ったとき、僕は特に様子の変化は無かったように思えた。というのもそれがありえないことだと考えていたからだ。とにかく、無心で僕は彼の実家へと向かった。植木さんのお通夜で、私服を着ていたのは僕一人だけだった。それくらい、考えも無しに行動していた。葬儀の場で改めて親しい人の遺体を見たとき、もの凄いショックを受けた。初めて彼が亡くなったという実感が出たからか、遺体が黒くなっている様子を見て、植木さんの亡くなる瞬間の苦しみを想像してしまったからかはわからない。それ以上見ていられなくなって僕は部屋から出た。出た瞬間僕は自分でも信じられないくらい気が動転して泣き始めた。その日から数日間、僕はずっと虚無感を覚えていて、翌日のバイトもずっと呆然としていたことを今でも覚えている。

虚しくてしょうがなかったし、悪い夢だと本気で思いたかった。今でも気軽に電話がかかってきてもおかしくはない、と思うほど存在の濃い人だった。

 

今だったら、様々な話が出来ると思うが、それももう二度と叶わない。

全てフィクションであってほしいと、心の底から思う。